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真宗の教え

ひとこと法話

▼ わたしの心を動かすもの

「あなたはあらゆることが科学的に説明できると信じているのですか?」

二十世紀を代表する物理学者アインシュタイン博士に、こんなことを尋ねた方がいました。
博士は「ええ」と、こたえたそうです。
自然科学の最先端を歩まれたアインシュタイン博士のこと。
「あらゆることが科学的に説明できる」と本当に信じていたのでしょう。
ところがそのあとに、博士はこんな言葉をつづけています。

「でも、それは意味のないことでしょうね。ベートーベンの交響曲を聞いたとき、これは音波の変化が組み合わさったものだ、と表現するように、意味のないことです」

この言葉に私はハッとさせられました。

たしかにベートーベンの素晴らしい交響曲、たとえば第五番の第四楽章が、どのような音波の組み合わせなのか、私は知りません。
しかしその壮麗な響きは、聞くたびに私の心をふるわせます。

論理的な説明を納得できれば本当で、そうでなければ本当ではないのだから聞く価値はないと、日頃そんな風に思いがちな私に、アインシュタイン博士は問いかけているようです。
「私の心を動かすのは論理的な説明ではなく、そこに届いている事実だよ」と。

阿弥陀さまの存在は、いくら説明されたとしても、はかり知ることはできません。
しかしそのお心は、ナモアミダブツの声となって、すでに私に届いています。すでに私に聞こえています。
悲しいときも、嬉しいときも「ここに一緒にいるぞ、われにまかせよ、かならず救う」と仰せくださる如来さまのお心が、お念仏の声とともに私のなかに響きわたっているのです。
その仰せにしたがい、自らのはからいを離れるところに、広大な仏のご恩をあおぐ信心の喜びがあります。

大切なのは、その説明ではありません。
いま現に、私が動かされている事実。私を動かしている如来さまの力です。

(2013築地本願寺テレフォン法話向けの原稿を一部加筆修正)


▼ 平成25年1月16日 今年のご正忌ご満座

昨年の1月は、宗祖750回大遠忌のご正当法要にお参りした。
坊守(妻)と二人、日帰りでの参拝だった。

雪がちらつく京都。雰囲気はいいが、寒い。
広い御影堂はなおさらで、まさに底冷え。
申し訳ないが、コートを着たまま御堂のイスに座り
親切にもすべての座席にそなえつけてある毛布で下半身をつつみ
これまた親切に入り口でくださったカイロを首にあて
それでも「う゛~ さむっ」と、あちこちをさすりながらの参拝。

情けない・・・と、なげきつつ
また、ありがたいあ、もったいないと思ったことである。

寒いときに寒さに耐えてお念仏するのもナンマンダブ
寒いときに暖まってお念仏するのもナンマンダブ
声を合わせて立派に儀式を勤めながらするお念仏も
背を丸めてぼそぼそ震えながら称えるお念仏も
いつもおなじナンマンダブだ。

どんなときの念仏にも、どんな私の念仏にも
「ここに如来がいるぞ」
「そんなお前とともにあるぞ」
「お前の気持ちは知っているぞ」
「なにがあってもお前を捨てはしない」と
いつも変わらない如来さまのお心が聞こえてくる。

如来さまの方からは
理想的な念仏者像などは、想定されていない。
念仏者はこうあるべき、という押しつけがない。

寒さに耐えているときも、ぬくぬく暖まっているときも
どのようなときであれ、どのような私であれ
いつも変わらずに私とともにあるのが如来さまだ。

その如来さまをいただいく身として
どのような日々を送るかは、それぞれの縁。
自分にあったご報謝がある。

お念仏を称えるのも
仏法を聞きにお寺に参るのも
寒いなかお勤めをするのも
暑いなか境内を掃除するのも
おのおの縁にしたがってのご報謝の生活をするばかり。

今年のご正忌報恩講は、ウェブ中継でのお参りだった。
去年の寒い御影堂を思い出しながら
ぬくぬくと暖かい寺務室で、モニター越しの御真影様を拝した。

残念だなぁ、ご本山にお参りしたかったなぁ
でも、こうして参れるのは有難いな
もったいないな・・・
そう思いつつお念仏させていただいた。


▼ 平成24年1月9日 大遠忌御正当の年の初めに

今日1月9日から16日まで、京都のご本山・西本願寺で、
宗祖・親鸞聖人の750回大遠忌御正当法要が勤修されます。
そう、いまの暦でいう今年の1月16日は、
宗祖聖人が、その長い90年のご生涯を閉じられた、
まさに750回目のご命日です。

今年88歳になる恩師のお一人が、
よく法話で語られるこんなお言葉を、ふと思いかえします。
「長生きはエエねぇ。
70代の頃にはわからんかったことがわかるようになる。
ご開山さま(宗祖)が90歳まで生きて下さったからね、
浄土真宗の教えは深くなりました。
それに・・・優しいです。有難いねぇ。」と。

そう、私は住職になって今年で丸20年になります。
この世界ではまだまだ若輩で、わからないことの多い私ですが、
それでも、住職になりたての頃の自分をふりかえれば、
「まったくわかってなかったなぁ」と恥じいるばかりです。
そして、ろくにわかっていなかったくせに
(というより、ろくにわかっていなかったからこそ)
ずいぶんエラそうな、立派げなことを言っていたように思います。

それなら、またさらに20年たって、
60代の私が、いまの私をふりかえってみると、どうか?
やっぱり、いま私が20年前をふりかえって思っているのとおなじように
「わかってねぇなぁ」と恥ずかしく思うのでしょう。

750年前に、90歳まで生きられた宗祖がご覧になっていた世界、
聖人の心の奥底に広がっていた風景は、どんなものだったのだろう・・・
私などに、はかり知ることはできません。
しかし私には、これだけは宗祖とおなじだなと、わかることがあります。
親鸞聖人も、いまの私とおなじ南无阿弥陀仏を称えておられました。 私とおなじ如来さまの声にしたがって、
みずからの世界、心の奥底を見つづけていたことはたしかです。

遠い宿縁により、はからずも宗祖聖人とおなじ
お念仏の道を歩む身とならせていただきました。
南无阿弥陀仏を称え、
如来さまのお言葉に信順して、
私自身の心の奥底にどのような風景が映り広がっていくのか、
見つづけていこう。
そんな思いを新たにする大遠忌です。

浄土真宗

浄土真宗の経典
 浄土真宗は、『仏説無量寿経』(略して『大経』といいます)に説かれている教えをよりどころにしている仏教です。
 宗祖・親鸞聖人は、たくさんの経典があるなかで「お釈迦さまは、この『大経』を説くために、この世に出現されたのだ」とお示しになられました。
 このお経に説かれている阿弥陀如来の本願のお心こそ、だれもが平等に救われてゆく道であり、「わたしはこのご本願のお心にしたがうよりほかに仏になる道はない」そのように仏法をいただかれたのが親鸞聖人でした。宗祖はこうした立場において、阿弥陀さまの願いをもとに体系づけられた仏道をあきらかにされたのです。

光が限りなく、寿命が限りなくあるように
 この二つの願いは、阿弥陀さまが、みずからとみずからの世界(=浄土)の本質を明示された願いです。すこし洒落た現代風の言い方をすれば「永遠の光」とか「無限の光」とでも言えるでしょうか。昔からの言い方では無量寿・無量光と言われてきました。
 もともと阿弥陀さまのお名前は、インドの言葉サンスクリット語(梵語)では、アミターユス amitāyus = 無量寿・ アミターバ amitābha = 無量光 と言います。
 この無量寿・無量光という本質はまた、「いつまでも、どこまでも、あなたとともにあり、どんなことがあろうとも必ずあなたをすくいとる光でありたい」という如来さまの願いをもあらわしています。
 つまり、限りない光と限りない寿命という二つの意味をもつ阿弥陀さまの名号-南无阿弥陀仏-は、わたしがいつも如来さまの願いと光につつまれていることの証しでもあったのです。

わたしの名前が、だれにでも聞こえ、信受され、称えられるように
 いつもわたしを照らし、わたしに宿っていてくださる阿弥陀さま。その光は目に見える光ではありません。「心光」という、心に思い知る光です。ならば、その光を、わたしたちはどのように知ることができるのでしょうか。
 それは南无阿弥陀仏という声によって知られるのです。
 阿弥陀さまは、南无阿弥陀仏というみずからのお名前(=名号)を聞かせることによって、すべての生きとし生ける者に、光が至り届いていることを知らせようと願いを立てられました。そしてあらゆる仏さまによって名号が称えられ、誰にでも名号が聞こえるようにと誓われたのです。
 そうしますと、阿弥陀さまの光明と名号は、別々に存在するものではありません。阿弥陀さまの名前は、わたしたちをすくいとる限りない光をあらわしており、その光は南无阿弥陀仏という名号の声によって、はじめてわたしたちに知られます。
 そのお名前にこめられた「あなたを必ずすくいとる」という阿弥陀さまの願いを、その願いのままに、わたしたちが聞き受けることを「信心」といいます。ですから浄土真宗の信心は、聞信、信順、信受などともいわれるのです。

~ つづく ~

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